「陸軍中将 樋口季一郎の遺訓 ユダヤ難民と北海道を救った将軍」
樋口隆一(編者)
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淡路島の南あわじ市で生まれた樋口季一郎。
人形浄瑠璃の町に生まれ、将来は人形遣いとなることを漠然と夢見ていた少年は、両親の離婚という過酷な現実に直面して、軍人となる道を選んだ。当時の日本は、日清戦争(一八九四~九五)、日露戦争(一九〇四~〇五)、第一次世界大戦(一九一四~一八)を通じて、いやおうなしに世界史の荒波に飲み込まれつつあった。文学・芸術を愛し、日蓮宗を通じて人の道を模索した青年は、外国語、特にドイツ語とロシア語を深く学び、情報将校として育っていった。 (p10)
樋口季一郎の孫にあたる樋口隆一氏が、
没後50周年にあたり、
樋口季一郎の書き残した手記を再編集したのがこの本です。
525ページに及ぶ、厚い本。
前半94ページまでは、
樋口隆一氏による「樋口季一郎の生涯と活動」という章。
親族ならではの情報で、
樋口季一郎の姿がより鮮明に描写され、
その生涯がまとめられています。
『回想録』は、チフリスでの次のようなエピソードを記している。
「ある玩具店の老主人(ユダヤ人)が、私共の日本人たることを知るや襟を正して、『私は日本天皇こそ、我らの待望するメッシアではないかと思う。何故なら日本人ほど人種的偏見のない民族はなく、日本天皇はまたその国内において階級的に何らの偏見を持たぬと聴いているから』というのであった」(p25)
キャッスル中佐の話はさらに続いた。北海道占領というスターリンの野望を阻止することとなった樋口を、ソ連は「戦犯容疑者として逮捕」するように要求したが、なんとイギリスがその逮捕要求を拒否してくれたというのである。樋口はこれに対して、「それはイギリスではなくアメリカでしょう。いやアメリカでなく在米ユダヤ人でしょう」と答えた。(p87)
コーガンは、一九五三年(昭和二十八年)に、「株式会社太東貿易」を創立し、「トロイカ」というウォッカの製造販売を始めた。この頃、たまたま上京してわが家に滞在していた祖父を、彼が訪ねてきたときのことは鮮明に覚えている。当時としては貴重品だったバナナの房が入った果物籠と、ウォッカの小瓶を携えての来訪だったからである。満州で大勢のユダヤ人を助けたことを、私と母は初めて祖父の口から聞いた。コーガンは祖父に、彼の会社の顧問になってほしいと頼みに来たのだが、祖父は固辞していた。しかし彼が帰ったあと、コーガンの好意が嬉しかったのか、そのウォッカをチビチビと舐めながら、大きな声で「ヴォトカ・トロイカ」とロシア語風に読んでいたことを懐かしく思い出す。(p89)
ここからは、樋口季一郎による文章です。
「北方情報業務に関する回想」より引用。
間もなくベルリンからオットー【オット】大使経由、日本外務省に対し「ハルビン市において樋口なる一将官が、日独関係に好ましからざる行動に出ている、善処ありたし」と抗議してきた。抗議文の写しが、陸軍省経由、新京に来た。そして私に意見を徴した。私はさきに満州国外交官に説いたと同一趣旨にもとづき、ドイツが私に関する抗議をなすことは、ドイツが日本を属国視する以外の何ものでない。ドイツはむしろ非文明的なる拝独行為を即刻中止すべきであるとの趣意書を提出したが、東条参謀長は全面的にそれに同調したようであり、その後、抗議問題はうやむやとなったようである(その年八月、私は参謀本部第二部長に転じたが、オットー大使は一言もこの問題に触れることもなく、私を利用すべく努めるかに見えた。外交とは一種のエチケット【礼儀作法】である)(p148)
「私の軍人としての最終章」より引用。
およそ戦略戦術には奇襲攻撃はありうる。しかし戦争の本質上そこには奇襲はないのである。いな、あってはならないのである。それは、戦争は「大義名分」を絶対に必要とするからである。なぜ大義名分をそれほど必要とするか。それは戦争が大義に立つかぎり、自国国民の志気を永続的に作興し、敵国民の志気を永続的に挫折せしむるからである。もしそれに反し、我に大義名分を欠かんか、戦勝による一時的志気の興奮はありうるも、戦争進行の途上におけるなんらかの蹉跌あらんか、たちまちにして不安と動揺をきたすものである。反対に敵国の士気を高揚せしめ、戦争に関する国民の奉仕力をして長期にいよいよ倍加せしむるからである。これがため、奇襲開戦は絶対にこれを行ってはならない。それでは「勝ち味がない」というか。それではその様な戦争には勝つ希望なしと自白するものである。それは「敗れて然るのち戦う」ものである。必敗の戦いである。国家として必敗の戦いは絶対すべきではない。それは戦争の本質である。(p160)
この事件発生の一か月ほど前のこと、北海道出身の有名水彩画家某君がアッツを訪れ、数枚の写生を制作し、私はその一葉を貰い受けた。それが不思議と敵の上陸点を守備陣営の中心と覚しき方面より遠望した景観であった。私は毎朝毎晩私家の玄関に掲げられた水彩画を眺めつつ、旧部下の諸勇士を偲んでいる【樋口はこの遙拝を最晩年にいたるまで日課としていた】(p175)
「18日」は戦闘行動停止の最終日であり、「戦争と平和」の交換の日であるべきであった。北千島守備に任ずる第九十一師団長は、軍の指示に基づき武器を投ずるための準備に腐心しつつあった。これより先、千島樺太休戦 に関する打ち合わせ方を関東軍参謀長に電話していた。当方は天皇の命令により武器を投ずるのであり、敗戦の連続としての投降ではない。ゆえにその「武器投棄」は、両軍の協議の上、紳士的に行われるべきであるとの信念に基づいたものである(米軍との間では、この原則によって処理された。)
しかるに何事ぞ、十八日未明、強盗が私人の裏木戸を破って侵入すると同様の、武力的奇襲行動を開始したのであった。かかる「不法行動」は許されるべきでない。もし、それを許せば、いたるところでこのような不法かつ無智な敵の行動が発生し、「平和的終戦」はありえないであろう。またなぜ彼らがこのような不作法行動をとり来たったか、彼らの独断か、それとも上司の命令か。
私は当然それはソ連極東最高司令官の意図に基づくものと確信した。ソ連においては、独断専行がないのであり、それが彼らの長所であるからである。 (p201)
そして、「最後の樋口季一郎」の章では、憲法や教育についても語っています。
戦争を知る人にとって、戦後の日本はこのように見えるのか、と驚きました。
今まで考えたこともなかった視点で、とても興味深かったです。
あぁ、もっとじっくり読みたい。理解したい。
この本は購入して、何度も読み返したいと思います。
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