「蔦屋重三郎と粋な男たち!」
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年末に、
最寄りの図書館へ本を返しに行った時、
返却カウンターの隣にある
おすすめコーナーで、
思いっきり目立ってました。
こちらの黄色い本💛
世界史選択だったので、
正直、日本史・近代史は、
若干・・・、
いえ、
盛大に苦手意識があります。
40歳を超えてから、
少しずつ日本文化への興味が
湧いてきていますが、
あまりの基礎知識の無さに、
絶望感のほうが大きくなりますね・・・。
なので、
今まであまり大河ドラマも見ていなかったのですが、
今回は、気になります~💖
蔦屋重三郎×横浜流星
図書館で運良く、
本も借りれましたので、
ドラマが始まる前に読んでおこう!と、
今年最初の本になりました😌
こちらの本、
やはりいつものように、
「もっと日本史勉強しておけばよかった~」と
読みながら思ったのですが、
わからなくても、
なんか読めちゃう!
ちょいちょい例えが面白いんですよ😆
目次の時点で、
これは面白そうな匂いがしてますよね😍
この本に出てきた
気になる本や落語をメモメモ👀
拡がっていきそうな予感です🙋
櫻庭由紀子先生の本、
他の本も読んでみたいです!
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江戸でバイトやってみた。ー古地図で歩く大江戸八百八町萬職業図鑑 新品価格 |
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蔦屋重三郎は
出版王とか名プロデューサーと
言われ、
才能ある人物を見抜き、
育てているのですが、
相性が良かったのは、
喜多川歌麿
重三郎は天明元年ころからは自らも「蔦唐丸」と号して、狂歌連に所属。大田南畝の懐に入り吉原連を主催し、南畝や朱楽管江、森島中良、そして朋誠堂喜三二、恋川春町らと狂歌サロンを創り上げようとしていた。そのサロンに、歌麿を入会させたのである。
大田南畝の厳しい面接をクリアした歌麿は、重三郎と共に狂歌を読み、サロンメンバーを接待した。重三郎は歌麿を吉原に住まわせ、酒も女も、金の使い方も学ばせた。一流の客たちが、一流の遊女と知的な会話を交わす。吉原は日本中の一流が集まる場所だ。重三郎は、おそらく歌麿の女性の美を写す才を見抜いていた。この腕を、唯一無二のものにする。重三郎は歌麿の才能に、人生を賭けたのだ。
(中略)
才能に投資を惜しまず、それが糧となれば豪快に遊ばせた。それは、重三郎が少年時代に見た、男気の大通人たちの姿であった。
惚れる💘
一方、ちょっと扱いに困ったのが、
曲亭馬琴と葛飾北斎😁
まずは、
曲亭馬琴
馬琴は空気を読めないし、読もうとしない。ちょうどこの時、京伝と菊園の夫婦はまだ新婚生活の真っ最中。というわけで、京伝の勧めもあり、重三郎の耕書堂で番頭(手代)として働くこととなった。重三郎としては、武家の戯作者が全滅の人材不足の中、書ける手はいくらでも欲しかった。馬琴には、「執筆を優先させる働き方」を提案し、馬琴としても「戯作が書けるのならば」ということで、重三郎の食客となった。寛政4(1792)年のことである。
ところが、馬琴が書きたいものは剛健な勧善懲悪ものの読本。ナンセンスな笑いの黄表紙や男女の色事の洒落本ではなかった。そして、馬琴は「武士が商人に雇われる」ことを恥と考えていた。武士の名を捨て「瑣吉」としたのもその理由だ。
こうしたプライドの高さなので、重三郎はどうにも扱いづらかったらしい。蔦屋流吉原研修が効かないのだ。何せ「洒落本は教育によろしくない」という堅物で、酒も女も興味なし。吉原でめきめきとその才能を伸ばした喜多川歌麿とは真逆である。
これまで武士作家と交流してきた重三郎だが、朋誠堂喜三二に恋川春町、大田南畝と、みな吉原に通じており、洒落がわかるクリエーターたちだ。接待すればそれだけヒット作となって返ってくる。重三郎にとって馬琴は「どうすりゃよいのか」ではなかっただろうか。
寛政5(1793)年、馬琴は重三郎と京伝に勧められ、履物屋「伊勢屋」の婿養子となった。重三郎が馬琴にしてやれることは、「執筆時間の確保」であったのだろう。
続いて、
葛飾北斎
世界的な浮世絵師・葛飾北斎は、馬琴と同世代で、コンビを組んでいたこともあり、重三郎がプロデュースした作家だと思われがちだ。
しかし、北斎は重三郎とそれほど密な関係ではなく、浮世絵師としての重三郎の関心は歌麿や写楽に注がれた。北斎の方も、重三郎を版元とする仕事は目立つものではなく、いくつかの役者絵と、黄表紙や狂歌本の挿絵を描いており、版元を重三郎にこだわってはいない。
ただ、重三郎が北斎に依頼した挿絵は、山東京伝や曲亭馬琴、唐来参和などの人気作家のものが多く、物語を描く想像力と画力は認めていたのではないだろうか。後に曲亭馬琴の『椿説弓張月』の挿絵でブレイクし、北斎&馬琴で文化・文政期(1804~1830)の読本ブームを作る未来を、予測していたのかもしれない。
積極的にプロデュースに乗り出さず、歌麿に傾倒していた理由に、馬琴と同様、吉原研修が効かないクリエーターへの苦手意識もあるだろう。昭和世代が令和世代を飲みに誘うべきか、どうすべきか、みたいに重三郎も悩んだのであろうか(10歳程度しか変わらないのだが)。北斎は酒も煙草もやらない、超甘党だ。
と、
色々なタイプのクリエーターの面倒を見て、
重鎮の懐には上手に飛び込み、
吉原の興隆のためには、
一肌脱ぐという重三郎は、
江戸の町人文化を体現する
スーパー江戸っ子だったんだなぁと。
そして、
江戸時代に江戸に生まれたからって、
みんながみんな、
粋で鯔背で洒落で通だったわけではなく、
馬琴とか北斎タイプも共存できていて
なぜかホッとしました😁
個人的には、
落語『明烏』の時次郎、
山東京伝の『江戸生艶気樺焼』の艶次郎、
この二人の、
脳内お花畑感がすごく好きで、
一気にファンになってしまいました😊
きっと当時の人も、
空気を読んだり、
かっこ良く生きることに
ちょっと疲れた時は、
こういう天真爛漫なタイプを
野暮と笑いながらも、
結構好きだったりするのかな💖
と思ってしまいます。
さてさて、
重三郎の生き方を通して
わたし自身も、
洒落がわかる江戸っ子のような気分になったのですが、
本の終盤、
こちらの話↓を読んで、
わたしの解釈と
江戸っ子の解釈がまるで違うことに
驚きました。
天明5(1785)年、重三郎サロンでわいわいやっていた頃に書かれた唐来参和名義の黄表紙に『莫切自根金生木 (きるなのねからかねのなるき)』がある。金がありすぎて苦しむ大金持ちが、貧乏になろうとあの手この手を尽くすが失敗する話で、寛政の改革を揶揄した『天下一面鏡梅鉢』と同じ、逆さまの趣向だ。
大金持ちの万々先生は、数日だけでも貧乏になってみたいと貧乏神を信心するが御利益がない。そこで、絶対に返ってこない者に金を貸したり、派手に遊里で遊んでみたり、法外な額で先物取引や賭博、富くじ(宝くじ)をやってみるが、全て金が増えて戻ってくる。泥棒に盗ませようとしたり、豪勢な旅に出てみたりしても、やはり金が転がり込んでくる。
ついに金銀を全て海に捨てると、その金銀が空を飛んで世界中の金を連れて万々先生の金庫に戻ってくる。こりゃ大変と家を逃げ出すと、今度はえらい利息ごと金を返済すると追いかけてきて、万策尽きて金に埋もれた家で年を越す。
という話。
これを読んでわたしは、
あら!
結構スピリチュアル💖
と、思ったんですね😁
わたし、
スピリチュアルな本とか、
セレブのリアリティーショーが
大好きなんです😍
なので、
これって、
「お金持ちマインドの人は、
何をしてもお金が戻ってきます🙆」
とか、
「お金はどんどん使っても無くなりませんよ🙆」
みたいな話だと解釈したんですね。
重三郎も才能あるクリエーターに
投資してきたわけですし、
苦しくても、
「お金はある」って思って、
使いましょうって話かと。
江戸時代でも
こういうお金のアドバイスがあって、
いつの時代も同じなんだなっていう
共感を覚えたわけです。
ところが、
読み進めてみると、
金銭をテーマにした話は、ともすると道徳的な話になりがちだ。御伽噺でも、正直者のじいさまとか、人助けをしていったら長者になったとかいう話になる。貧乏神と暮らすうちに情がわいて、やってきた福の神を追い出して、貧乏神とそれなりに幸せに暮らしたという昔話もある。「お金は徳がある人の元にやってきますよ」「幸せはお金だけじゃないですよ」という正論だ。
ところが参和は、「いや、金は要るだろう」「金持ちになりたいだろう」と、自分と多くの庶民たちの欲望をそのまま描いた。
本作の執筆当時、参和は武士をクビになり、金策に走っていたことだろう。切羽詰まった時こそ、こういった妄想をしやすい。現実に戻れば、ため息しか出ない。ため息の後に出るのは、乾いた笑いだ。
これを参和が戯作にすると、そんな虚しさすら笑いになる。というか、虚しいから笑い飛ばせという、何だかよくわからないエールになる。読む人々は「馬鹿だねェ」と笑い、自分と同様に倹しい生活であろう作者に、共感すら覚えてしまうのだ。
江戸っ子の
正解は、
「馬鹿だねェ」と笑う😆
そうか、
江戸っ子は、
この話を読んで、
「馬鹿だねェ」なのか・・・。
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